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うつの原因に改訂学習性無力感理論てのもありますよという話


こちらの記事を読んでて、他にも改訂学習性無力感理論てのもあるよ、と自分の覚書もかねてまとめてみた。

 

そもそも学習性無力感(LH)とは、てとこは上のブログを見ていただくとして、省略。

人間の例を補足すると、正答のない問題を与え、その回答が誤りですよとフィードバックする形(認知的課題)でもLHが生じることが確認されている。 この場合、

  • 「どうせこれも解けない問題だ」(動機付けの低下)
  • 「自分には解けるわけがない」(認知の歪み)
  • 「何もかもダメだ」(抑うつと不安の感情)

という問題が生じる。ここから、LH現象とうつ病とは類似点が指摘され、LH理論がうつ病のモデルとして応用できる可能性が示され、研究が進んだ。

 

しかし、認知的課題では一貫した結果が得られないという問題があった。つまり、正答のない課題を与え解かせる経験が、むしろ、その後の課題解決にブラスの影響を与える場合もあるということ。難しい課題に燃えてくる熱いやつもいるということ。

 

そこで、同じ状況を経験しても、個人によってLHに陥る場合とそうでない場合がある点を説明すべく、自分の行動が結果に結びつかない原因を何に帰属させるかの傾向につき、以下の3つの観点に注目したのが改訂LH理論。

  • 内的ー外的:原因が自分自身にあるのか、自分以外の他人や状況・環境にあるのか
  • 安定ー不安定:永続的にいつまでもあり続ける固定的なものなのか、一時的で状況によって変動するものなのか
  • 全体ー特殊:どのような出来事についても共通して起こりうる一般的なものなのか、特定の場面だけに限定された特殊なものなのか

改訂LH理論では、内的・安定・全体に帰属するほど、LHを強く生起すると説明する。

例えば、仕事で失敗を繰返したとき、自分のミスだ(内的)・今後も失敗を続けるのだろう(安定)・全体何をやっても失敗するだろう(全体)と思ってる方が、LHに陥りやすい。

一方、同じように仕事で失敗を繰返しても○○さんのせい、不景気のせい(外的)・次は失敗しないよ(不安定)・今回はイレギュラーな案件だった(特殊)と思ってると、LHには陥りにくいということ。

 

このように書くと、メンタルヘルスのためには、無責任で楽観的な言い訳野郎を推奨してるみたいだけど、そうではない。単にそういう人がうつ病になりにくいと言うだけ。さらに、極端に振れすぎてると、他人を潰しかねないので、却下。

 

さらに、改訂LH理論では、抑うつ傾向の強い人は、成功した出来事に対して、外的・不安定・特殊としがちな一方、失敗した出来事に対して内的・安定・全体としがちな特有の原因帰属スタイルをとることが指摘されている。

要するに、悪いことが起こると、何でも自分のせい・今の状態はずっと変わらない・他のことにまで一般化しすぎてる傾向がある一方、良いことが起こっても、自分の力ではない・次も成功するとは限らない・今回はラッキーなだけとする傾向があるということ。

もし、当てはまってたら、LHに陥りやすくなるので、要注意!

 

で、個人的にオススメしたいのは、

良いことが起こったら、

  • 根拠もなく自分のおかげと思い込む
  • 根拠もなく次も成功すると決め付ける
  • 根拠もなく成功体験を一般化する

ように意識してみるということ。

普通、悪いことが起こったときの認知を変えようとしがちだけど、それはかなり負荷が高い。なぜなら、抑うつの傾向がある人は、悪いことが起きた時点でかなりダメージ受けてるわけで、その状態で変化を求めるのは、ハードル高くて挫折するだけ。最悪の場合、その挫折感がとどめをさしかねないので。

 

なお、アドバイスが自己啓発本と変わらないのは自分の凡庸さのせい。

 

おしまい。 

「ワンオペ育児」と名付ける必要性

正直なこと言うと、「私のことだ」ていう別の話題を彷彿とさせる表現と媒体名見て、「うげっ!」て胃もたれしたけど、この名付けとその意義には、全力で同意せざるを得ない。

 

はっきり言って、共働きでワンオペとか、無理ゲーにもほどがある。自分なんかは、共働きといえども恵まれてる方で、妻が仕事遅いときに保育園お迎えから寝かしつけまでワンオペする程度。しかも単なるご飯温め係で、それでも寝落ち必至、かつ、翌朝妻から家の荒れ果て様に苦言呈されてて、これ毎日毎日、日中もやってる専業主婦と、日中仕事してからやってるワーママとか、どんな強者だよと畏怖の念しか湧かないわけで。

 

本当にワンオペ子育てとか無理ゲー。大切なので二回言いました。

いや、そもそも生物進化の過程で、人類はワンオペ子育てするという選択は棄て、共同体で子育てするという選択をしてきたはず。

もしワンオペ子育てを前提としてたら、あんなに未熟な状態で産まれてこないって!身動きできず視力もほとんどなく、昼夜問わず三時間おきに授乳が必要。野生の中でこの状態の子をワンオペ子育てしてたら、あっという間に天敵に喰われちゃいますって。進撃の巨人なんかいなくたって。

 

それが、たかたがここ数十年、日本という島国で専業主婦という子育てスタイルが市民権を得て、次第にマジョリティになり、自分自身もまさに専業主婦家庭で、それを疑わずに生きてきた。

一方で、専業主婦マジョリティ化を後押しした企業戦士なるレガシーは「母親一人でもうちの子は立派に育った」と勘違いして、3才児神話を都合よく信奉して、未だに世間の雰囲気の一翼を担ってるわけで。

でもそんなんだから、熟年離婚なる言葉が憚らずに語られるほど歪みきった社会なわけで。

子供が立派に育ったのは、その子の適応能力、生きる力、そして、母の底力なめんなって!母親は命懸けで産んでんだから、死ぬ気で育て上げようとするわけで、そのためなら自分の自由なんか棄ててしまえる覚悟を知れと!

 

でも、そんなのおかしいよね、と。なんで専業主夫ではダメなのか?母親が働いちゃダメなのか?親が働くのセーブして子育て何が悪いのか?と、蓮舫も止めに入る勢いで問いかけたい!

 

そもそも高度経済成長という特異な状況にガラパゴス的適応進化した企業戦士なんて、これからの世の中絶滅するのが自然の摂理であって、専業主婦マジョリティ時代も終焉して当然だと思う。

念のため言うと、専業主婦を望む人を否定する意図は微塵もなく、それを是としてきたレガシーどもがその恥を知れと思ったまで。

 

で、長くなったけど、専業主婦はワンオペが暗黙の前提なわけで、「それでも子育てできるよ」とか、「私はやってきた」はもうやめませんかということを声を大にして伝えたいわけ。

そのためなら、多少タイトル微妙でも、この記事を全力で支持したいし、「奥さんにワンオペ子育てさせてるとか、ないわー」となることを願んでやまない。

 

ちなみに、イクメンではダメなの?ってこともあるかもだけど、もうその果たすべき役目は終わったのかなと。つまり、男性も育児をという、初歩的すぎる啓蒙には役立つし、役立ったけど、今はもう一周回って「おれはイクメンじゃない(じゃなかった)から」とか「○○さん家はイクメンで良いわね」の文脈でしか聞かなくなって、お役御免なのかと。

そして、そもそも同居してて育児しない夫は、生物学的には父親でも、その子にとっては足長おじさんと何が違うのかと、突き放してよ時期に差し掛かってると思うわけで。

 

終わりに

  • 熱くなりすぎ、暑苦しすぎた
  • タイトルで損しすぎ。もうホッテントリーメーカーとか使えば?
  • 来年の流行語大賞とって欲しいけど、受賞者なしの方向で

 

おしまい。

動物の死に様を見世物にすること

http://anond.hatelabo.jp/20161129232307
↑いちいち誇張しすぎの増田の超理論なんで、個別にツッコミ入れるのは野暮だし、動物愛護やらカニバリズムやらは単に論争呼びそうなワード使ってる感じなんでスルーの方向で。

 

ただ、確かに「感謝して食べるからいいんだという理屈」で、マグロの解体ショーが○、スペースワールドの件が×としちゃいかんなというのはその通りだなと思った。もちろん、カニバリズムとか関係なく。
感謝して食べるからいいんだ理論だと、今回の件も、徹底した衛生管理のもと氷漬けの魚は後程スタッフが美味しく頂きましただったらいいのかって、それは違うなと思いまして。
あと、残虐性という基準を持ち出すと、今度は、マグロがイルカに入れ替わると残虐だよね!認めないと太平洋上で追いかけ廻すぞ!!って、シーシェパードされそうなので、これまた違うなと。

 

で、結論からいうと、動物の死に様を見世物にしてもよいかは、

  1. 動物に死をもたらす又はその死を利用する行為そのものが受け入れられているか
  2. その行為を見世物にすることが受け入れられ、かつ、需要があるかどうか

の2つのハードルを越えられるかにかかっているんじゃないかと。

 

1. 動物に死をもたらす又はその死を利用する行為の許容性

そもそも動物を食べる・革にするというのは、広く受け入れられていて、そのために必要な行為として、マグロの解体、革を剥ぐこと自体は○。
一方、件のアイスリンクに死んだ魚を埋めるのは、そもそも何で本物なの?ジンベイザメみたいに写真じゃだめなの?って、受け入れ難いから×なのかなと。

なお、イルカとクジラの解体は、文化的な背景から許容性に違いがあって、強硬に×の人がいて意見の対立があるってことで。

 

2. 見世物にすることの許容性と需要の有無

その上で、マグロの解体ショーが○で、屠殺動画が×ってなる分かれ目がここ。
例えば、家で飼ってる鶏をしめて食べてるのなら、その行為を見せられても許容はできるだろうけど、そんなの見たことない都会っ子には受け入れ難いだろう。これ、皮を剥ぐのも、同じかそれ以上に見たこと少ないだろうと思う(許容性の問題)。
さらに、許容はできても、その行為を見たいかと言えば、よほど効率的なしめかたを欲してるとかでなければ、ないんじゃないかと。ましてや、皮を剥ぐのをみたい需要は一般には皆無だろうと。むしろ、その需要は専門技術としてであって、決して見世物ではない。だから、屠殺や皮を剥ぐ動画は×となる(需要の問題)。

ちなみに、そういう残虐性を欲する性分の人を否定も肯定もしないけど、今回は皆さんお越し下さいの万人向けな見世物という前提なんでお呼びでないということで。

 

ここで、いやいやこれは芸術なんだと主張してたらどうなったんだろうか。
つまり、特別に透明度の高い氷を使い、花も散りばめて、これは芸術作品なんだと。
でも、やっぱりアウトだったのかなと思う。そこにはその氷の上を滑る=足で踏みつけるというとこも一因かなと。
そうすると、

    3.見せ方の態様が受け入れられるか

というのも追加した方がよいかもしれない。

 

雑感

  • 増田の超理論は一見小難しいこと言ってる風だから、深いわぁとかなる人もいるかも
  • イルカとクジラの話題に触れるの正直恐い
  • スペースワールドの今年のコンセプトが「今年から、アホはじめます」だから、正解っちゃ正解

 

おしまい。

ダイバーシティとLGBTと色の話

ダイバーシティLGBT

どっちも日経新聞が大好きなワードなのに、前者はおじさんがどや顔で使って、後者はあまりそうでないという自分観測に基づき、こんなやりとりを思いついた。

 

おじさん「これからはダイバーシティが大事だよな(どや顔)」

若い人「そうですね(また、言ってる‥)」

おじさん「だよな!(どやどや)」

若い人「では、わが社も、LGBTへの福利厚生を考えていかないとですね!?」

おじさん「えっ!?」

若い人「えっ?!」

みたいな。

 

このすれ違いは、単におじさんがダイバーシティを理解してないって話なんだけど、なんでそんなことになるかをちょっと掘り下げてみた。なんて暇人。

 

まず、ダイバーシティおじさんの頭の中を覗いてみたら、女性の管理職を増やすこととか、中途採用を増やすこととか、実は、経営層に若い(自分世代の)人を増やすことしかないとする。
これらは、(生物学的)性別の多様性、雇用形態の多様性、経営層年齢の多様性という意味で、ダイバーシティといえなくはない。

 

一方で、若い人は、LBGTも生きやすい社会とか、子育てと仕事を両立できるような働き方という観点で、ダイバーシティが大事と言ってるとする。
これは、(広義の)性の多様性、働き方の多様性という意味でのダイバーシティにあたる。

 

そうすると、二人の間で同じ言葉を使い、それ大事!となったはずなのに、おじさんは「えっ!?LGBTの話なんてしてない」となるし、若い人は「えっ?!LGBTの話は別なの?」となるのかなと。

 

もっとも、おじさんの「えっ!?」には、LGBTの福利厚生は別問題でしょ!という意識もあるかもだけど、それはそれで、本音ではダイバーシティが大事でないのが露見してしまうという別問題が生じてるわけで、そこはおいといて。。

 

で、なんでこんなことになるのかと考えてたら、どや顔おじさんが使う日経ワードはどれも抽象度高くないか?ということに気がついた(日経新聞が大好きなワード、長いので、日経ワード)

さらに、そこから、実は「抽象度が高い」日経ワードだと、どや顔おじさんが使いたがるんじゃないか!という誰も得しない仮説をたててみた。

 

抽象度っていうのも抽象的だなーとかぬかす、したり顔おじさんは大嫌いなので、個人的なイメージで、抽象度が高いと「具体的な色がついてない」って感じ、逆に、抽象度が低いと「具体的な色がついている」という感じに言い換えてみる。

 

すると、ダイバーシティには色がついてなくて、LGBTには色がついているとなる。

色がついてないダイバーシティには、いろんな多様性(色)が考えられるから、使う側で色を決める余地がある。

つまり、「何の」多様性であるかという部分は、おじさんが勝手に決めてしまえる。たとえそれが、当初の定義に対して正しくなくても!(重要)
そして、もしそこでツッコミ受けても「いやいや、私はこの色の意味で使ったまでです」と言われて「うーん、間違いとまでは言えないけど‥」みたいになってうやむやになりがち。

 

これを別の言い方にすると、色がついていない日経ワードは、おじさん色に染めることができるってこと。ああ、気色悪い。

 

ここでふと、じゃあ何で、色がついてない日経ワードばかり、どや顔おじさんが使いたがるのか?それがわからない。わかりたくもない。

 

そこで、おじさんか日経ワードを使い始めるまでの過程に注目してみた。その過程を分解したら、

  1. 聞いたことない状態(聞いたことないおじさん)
  2. 聞いたことあるけど、使えない状態(聞きかじりおじさん)
  3. 聞いたことあるし、使いこなせる状態(どや顔おじさん)

という進化の過程が考えられる。

 

で、この過程で重要なのは、聞きかじりおじさんが、どや顔おじさんに進化するには、日経ワードを使いこなせるような、新たなインプットをしなくてはならないってこと。
なぜなら、日経ワードが、新しい概念に"カッコいい"名前をつけたものであり、おじさんには未知のものだから。

 

でも、おじさんの基本性能として、野球とゴルフ以外のことをインプットすることは想定されていない。

 

すると、おじさんはどうするか。

 

そう、諦める。
※そんな言葉で騙されるか!日本語で話せ!と怒る場合もある

 

そうなると、基本的に、聞きかじりおじさんは増えても、どや顔おじさんは増えない。

例えば、色のついているLGBTでみてみると、聞きかじりおじさんは、「ああ、あれだな、レズとかホモとか言って差別はいけないってことだな」と小学生の時に得た知識に関連づけて、進化せずにおしまい。
なぜなら、野球でもゴルフでもない、ましてや自分の身近な話題とは思ってもいないおじさんが、新たなインプットをするはずがないから。

 

一方、色がついていない日経ワードの場合は違う。

色がついていないダイバーシティの場合、それ自体は「何の」多様性であってもあてはまりうるわけ。

そうすると、聞きかじりおじさんはどうなるかというと「もしかしてあれのことか!?」となる。「あれ」に入るのは、上でみたような、(生物学的)性別の多様性とか、雇用形態の多様性とか、経営層年齢の多様性とか。
これは、おじさんの手の届く範囲で、身近な話題ばかり。そのため、新たなインプットがいらない。しかも、その結論も受け入れやすい。

 

これで、めでたく、どや顔おじさんに進化できました、おしまい。ではなくて。

 

これって、つまり、色がついていないことで、聞きかじりおじさんは、新たなインプットがいらなくなり、どや顔おじさんに進化する確率が格段に高いんじゃないかと。
ただし、それが当初の定義に対して正しくない場合もある(再掲)

 

まとめ

  • どや顔おじさんが使いたがる日経ワードは色がついていない
  • 色がついていると、聞きかじりおじさんは、諦めるか怒りだす
  • 色がついていないと、聞きかじりおじさん→どや顔おじさんへの進化確率が上昇
  • こんなに長く書くつもりなかった
  • LGBTの「色」は虹色

 

最後に

文中で何回「おじさん」がでてきた?

 

昔を大事にしろ教徒があとを絶たない理由

他人の便利にNO!と言いたがる人を読んで、ふと思いついたことを備忘録的に書いてみた。

 

いわゆる昔を大事にしろ教徒があとを絶たないは、「私たちの代で辞めたらなんか損じゃん!」という足の引っ張り合いが確かに要因ではあるけれど、本当にそれだけなのかなと疑問が湧いてきてしまった。他に要因はないのかなと、思ったわけです。

 

例えば、新入生の度胸試しの件でいえば、悪しき慣習を変えないことって、「今までと変えるの面倒くさいよね、それに自分たちもやってたし」ぐらいの感覚もあるのではないかと。

また、抱っこ紐の件や液体ミルクの件でいえば、足の引っ張り合いというより、むしろ本気で昔の方が良いって信じている、まさに「教徒」も結構いるんじゃないかと。

 

そこでふと思ったのが、昔を大事に教徒が生まれてくる背景には、もっと根本的な理由があるんじゃないかと。誰しも教徒になり得るような根本的な理由があるんじゃないかと。

また、その理由は、私が子どもの頃にはこんな便利なものはなかった論者にも当てはまるのではないかと考えたわけです。

 

その根本的な理由というのが、認知バイアスと論理的誤謬の合わせ技。もっというと、前者は現状維持バイアスと確証バイアスが、後者は前件否定の誤謬とすべり坂論法が関係するのかなと考えついた。

 

以下、思いのほか長くなったので、1.認知バイアスの話、2.論理的誤謬の話、3.まとめの項立てで。

 

1.認知バイアスの話

誰しも少なからず物事を見るときは色眼鏡を通してしか見られないわけで、その色眼鏡のうち、代表的なものには名前がついていて、これを認知バイアスという。その1つとして現状維持バイアスや確証バイアスがある。

 

現状維持バイアス

現状維持バイアスは、その名の通り、現状を維持できる、なるべく変化が少なそうな選択をしがちというもの。 これは、根本的に人間が変化を嫌う傾向にあるためで、日常のふとした場面でも当てはまる。例えば、いつものコンビニでいつも同じものを買ったり、行きつけのお店で迷ったあげく結局いつもと同じものを注文するのも、現状維持バイアス

現状維持バイアスの問題点は、別の選択肢が劣っており、状況を悪くすると思い込ませることがあるということ。「壊れてないものを直すな」という諺がそれを物語っている。

この現状維持バイアスを私が子供の頃は論者や、昔を大事に教徒にあてはめてみると、自分たちの時代にはなかった新しいものが出てきたときに、現状維持バイアスにより、ほぼ反射的に「壊れていないものを直すな」と反発が生まれがちということにならないだろうか。

 

ただ、これだけ聞くと、新しいものでも便利ならそんなこと思わないわと、自分だけは違うと思うかもしれない。実際自分もそう思う。

そこで出てくるのが、確証バイアス。

 

確証バイアス

確証バイアスは、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと。

同じ価値観や趣味の持ち主とばかり付き合うのも、自分に同意する人物に同意したがるのも、このため。一方で、自分の価値観を揺るがすような人や集団、あるいは情報源からは遠ざかる。

つまり、確証バイアスの問題点は、自分の意見を増強する情報のみを参考にし、そうでないものはいかに正当なものであろうとも無視してしまう。本人が意識していなくても!

 これは、新しいものに対する現状維持バイアスを、やはり正しかったのだと増強してしまうものではないだろうか。

 

 認知バイアスの影響まとめ

ここまで、認知バイアスの影響をまとめると、以下の通り。

新しいものが出てくる

↓(現状維持バイアスに基づく直感)

良いものであるはすがないという決めつけ

↓(確証バイアスに基づく検証)

やっぱり思った通りデメリットばかりだという決めつけ

 ↓

私の子供の頃はそんなものなかった論者がほぼ完成

 

2.論理的誤謬の話

ここまで、現状維持バイアスと確証バイアスにより、私の子供の頃は論者までこれたので、あと一歩。そこから先、昔を大事に教徒に進化するために必要となるのが論理的誤謬。

論理的誤謬とは、論証の過程の誤りであって、これやると「君、ロジカルじゃないね」と小バカにされるやつです。

 

前件否定の誤謬

前件否定の誤謬とは、「もし○○ならば××である」が正しいときに、○○でないという情報をもとに「××ではない」と言ってしまうこと。例えば、冬は雪が降ると○○線は遅れるよねというのが正しいとしたとき、今日は雪が降ってないという情報から、電車は遅れないと言っちゃう感じ。あまり良い例ではないけど。この場合、電車が遅れる要因は雪だけじゃなく、人身事故やら何やら他にもあって、電車が遅れないとは言えないよねということ。

これを私の子供の頃は論者にあてはめると、私が子供の頃は不便な中でも工夫して乗り越えたもんだ。だから、何事にも諦めないで乗り越える力がついたってことを正しいとする。これ、ツッコミ所はあるけど、まぁ一応正しいとします。

そこからが問題。今は何でも便利なものがあって、工夫ってもんを知らない。だから、何事にもすぐ諦めてしまうんだよ!

これで、昔を大事に教徒ができあがり。

でも、これだけでは終わらない。だめ押しのすべり坂論法。

 

すべり坂論法

すべり坂論法は、ある行為が法的または道徳的に許されないことを示す際に用いられがち。「一旦、○○を認めてしまえば、たちまち××になってしまうだろう」の形で使われる。

例えば、マイケル・ムーア監督の「SiCKO」という映画の台詞で「もしも、いったん国民皆保険を認めてしまえば、気がついたときには社会主義国家になっているだろう」というのが、まさにこれ。国民皆保険制度があっても社会主義国家ではない日本に住んでれば「はぁ?」てなるけど、国が変われば本気で信じる人もいるわけで。。

なお、上の台詞は、かなりの論理飛躍があるけど、仮にその間にそれらしい推論があっても、いわゆる「風か吹けば桶屋が儲かる」と同じで、個々の前提が1つでも崩れれば破綻。砂上の楼閣みたいなもん。

で、昔を大事に教徒の話に戻すと、すべり坂論法を使えば、「新しいものを一旦認めてしまえば、たちまちそれがもたらすデメリットばかりになるだろう」と布教することになるということです。

 

論理的誤謬の影響まとめ

以上、論理的誤謬の影響をまとめると、以下の通り。

 

昔は不便だったからこその幸せがあった

↓(前件否定の誤謬)

今は便利だからその幸せはない。不幸だ。

↓(すべり坂論法による布教)

一度新しいものを認めて便利になってしまえば、たちまち不幸ばかりになるだろう

昔を大事に教徒のできあがり

 

3.まとめ

~昔を大事に教徒にならないために~

最後に、昔を大事に教徒にならないためのチェックポイントをまとめておしまい。

 

 

→新しいものを批判してたら、その理由を考えてみる

  • 確証バイアスはないか?

→新しいものを肯定する意見を意識的に集める

  • 前件否定の誤謬はないか?

→古いもので得られたメリットは、本当にそれ以外の手段では得られないものなのか考えてみる

  • すべり坂論法ではないか?

→論理の飛躍はないか、極端な前提をおいてないか、多段階の推論すべて成立するのか検証してみる

 

おしまい。